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「みんなの学校」木村泰子さん講演会

【すべての子どもに居場所がある学校を作りたい。

学校が変われば、地域が変わる。そして、社会が変わっていく。】

そんな言葉が目を引くチラシをもらいました。

実録映画「みんなの学校」と木村泰子さん講演会がありました。

元校長の木村泰子さんが大阪市立の大空小学校に就任した時、10年後の学校を目指そうとされました。

まず「すべての子どもの学習権を保障する」ことを第一にされました。

子どもの学力を向上させるために何が必要かを第一にした学校では、学習環境を重視するため、他の子どもの学習に支障のある子どもは排除されることもありますが、

ここでは逆です。しかし、その結果、引越してでも受け入れてくれる大空小学校へとたくさん転校されました。

その子の背負っている透明なリュックサックはなんだろう?「おはよう」を家庭で聞いたことのない子どももいる。

木村先生いわく、
「障がいを理由にしてその子達が分断して失うものが怖かった。いろいろな人と関わり、コミュニケーション力をつけることができる。正解を求めることはやめよう。トラブルがこども同士が納得できる学びになるから。」

自分で考えることを実践するから、結果的に、大空小学校では、学力も向上しました。

担任一人でなく、全職種、地域の人たちも含めて30人が一人のこどもを育てよう。多様な子どもたちは一人では対応できない。30人いれば、誰か安心できる大人がいる。

授業をつくる努力よりも大事なのは、「目の前の子どもが育つこと。」

職員のチームができるかどうかが大切。人の力を活用する力がいる。できなかったら、助けを求めたらいいんですよ。

授業を長く受けたことがなく、大空小学校に転校してきた子どもSくん。欠席もなくなりました。卒業するとき、残した言葉。

「人にとって大切なのは、平和です。簡単ですよ。隣にいる人を大切にすると世界は平和になる。」

引退された今、大空小学校は教員がだいぶ入れ替わっても、木村泰子先生がたの精神をそのままに子どもの居場所になっています。

最後、木村先生に花束が。木村先生のファンが、名前を伏せて花束を置いていかれました(^ ^)
| こども・自尊心・教育 | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

ダイヤモンドより平和がほしい

棚に並ぶ本のセレクトが素敵な本屋さん「栗林書房」にて。児童向けの本。アフリカの少年兵のことを書いています。

著者をみてはっとしました。

後藤健二さんでした。
| こども・自尊心・教育 | 20:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

今の子どもたちが学ばない訳

「下流志向」内田樹 師 著より

1990年代以降の劇的な学力低下の原因は、「学びからの逃走」すなわち教育を受ける権利をまるで無価値なもののように放棄している現代の子ども達のありようを示す東大教育学部 佐藤学氏の説です。

なぜそのような倒錯がおこるのかについて、わかりやすく本書は説明されています。

今の子ども達は就学以前に消費主体としてすでに自己を確立しています。社会関係に入っていくときに、労働主体として入るか、消費から入るか。
かつては、社会的能力のない幼児が、成長していく過程で、社会的な承認を得るために家のお手伝いをして感謝と認知を獲得し、幼い自我のアイデンティティを基礎づけていく。

しかし、今は労働主体として、社会的な承認を得て自らを立ち上げることはできない。家庭内で子どもに期待されている生産活動ががぎりなくゼロに近い。その一方で子ども達の消費活動への参加はあまりに早い時期から促されます。

潤沢なおこづかいを手にして消費主体として市場に登場したときに、彼らが最初に感じたのは法外な全能感だったはずです。

消費することから社会的活動をスタートした子どもは、人生のごく初期にお金の全能性の経験を持ってしまう。

買い手という立場を先取することで、どのような場面でも自らを消費主体として位置づける方法を探すようになるでしょう。当然、学校でも教育サービスの買い手として先取しようとします。

「で、君は何を売るのかね?気に入ったら買わないでもないよ。」を教室の言葉に言い換えると、「ひらがなを習うことに、どんな意味があるのですか?」になるわけです。

そしてこの幼い消費主体は、価値や有用性が理解できない商品には、買う価値がないと判断します。
しかし教育は商品のように等価交換できません。等価交換する思考では、学んでいる時間のなかで自分自身もまた変化し成長することを勘定にいれることができない。

学びからの逃走は、おのれの無知に固執する欲望なのです。手持ちの価値の度量衡では計量できないものが世の中には無限に存在するのに。なぜそれを学ぶのか、何の役にたつのか、説得力のない答えがかえってくると「学ばない」と決める傲慢さと無知。

<比較的低い階層出身の日本の生徒たちは、学校での成功を否定し、将来よりも現在に向かうことで自己の有能感を高め、自己を肯定する術を身につけている。低い階層の生徒たちは学校の業績主義的な価値から離脱することで「自分自身にいい感じをもつ」ようになっているのである。>「階層化日本と教育危機」刈谷剛彦 氏著





| こども・自尊心・教育 | 18:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

内田樹氏の、いじめについての考察

思想家で、武道家(→ここ大事)でもある内田樹氏。私が大変尊敬するお1人です。

「街場の教育論」で、いじめについて構造を解き明かされています。ただし以下要約です。
いわく、
集団形成をすることの忌避と、集団をつくらなければならない強制が絡まり合って、非常に不安定な心理状態になっている。それがわずかなきっかけで均衡を失うと、場合によっていじめというかたちで発現する。集団に馴染まない個体が排除や攻撃の対象になるだけでなく、集団に過剰に適応したせいで、他と個体識別できなくなった個体も、いじめの対象になる。

今の子どもたちが、集団を形成することと、個体として孤立することの二つの要請を同時に受けていて、深い混乱のうちにあることが、いじめという病態の根底にあるのではないか。

しかし今の教育現場では、子どもたちに、集団の形成の術を学ぶと同時かそれより早く、「個性の発現」が課せられている。本来ならば、まず同学年の仲間たちと集団を形成して、彼らと呼吸を合わせ、感覚を共有して、ひとつの共生体をつくりだすことに専念すべきときに、「集団をつくるな。他人にもうかつに共感するな。個別化せよ。自分のタグをつけろ。自分の受け取るべき報酬を他人と分かち合うな」というグローバル資本主義の人事ルールが、幼い子どもにまで浴びせかけられている。

際立って有徴な個体であれば、いじめに。際立って無個性な個体も、いじめに。

このダブルバインド的状況を生き延びるために、子ども達は、それなりの生存戦略を見出さなければ、ならない。

広く社会全体に「準ーいじめ状況」が、びまんしている。あと一滴試薬を入れると飽和して結晶ができるように、集団にわずかでも適応不足であっても、わずかでも適応過剰であっても、いじめの標的になる可能性がある。

潜在的には、全員が全員にとっての獲物であり、かつ捕食者。という信じられないほどにストレスフルな状況が今の教育現場を侵食している。

今、学校が果たすべき最優先の仕事は、子どもたちが共同的に生きるための術を体得するより先に、「原子化*、砂粒化*、個別化せよ。」という圧力をかけているグローバル資本主義の介入に対する「防波堤」となることです。

*原子化、砂粒化とは

砂粒化は、 モジュール化とも言われる。ビジネス用語。コストカットのための方策のひとつ。さまざまな業務をマニュアルの決まった小さい作業ユニットに分けて、小分けにして売り買いするなど。

子どもたちの個別化は、著者によれば、砂粒化ではないかという指摘。

原子化は、「自分らしく生きるということは、要するに誰の同意も必要とせず商品選択を自己決定できること。」という国策的な「自分らしく生きる」キャンペーンの過程で、消費行動に際して同意が必要な他者との共生は、よくないことであるとの国民的な合意にもとづく単体化のこと。家族単位より個人単位のほうが消費は増えてグローバル企業は潤う。
| こども・自尊心・教育 | 20:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

「ねばならない」から「やりたい」へ転換

ビッグイシュー249号記事を読んで、気がついたことがあります。

若者支援の現場シリーズですが、NPO法人 文化学習協同ネットワークさんの取り組みの過程が、丁寧に紹介されてました。

不登校、ひきこもり、ニートの若者を対象とした居場所や就労のステップとなるベーカリーを運営されてます。

「不登校や不適応を起こした人は『ねばならない』に過剰に適応した結果、応えられなくなり、バーンアウトして自責の念に駆られ、動けなくなっている。『ねばならない』をできるだけ削ぎ落とし、『やりたい』に転換してあげるんです。その時にモデルになる先輩がいれば、今度は自分がやってみようかなと心の準備ができる。そして何よりも失敗が許される環境であることが大切です。」代表の佐藤洋作さん。

「パンが作れるようになるよりは家庭環境や学校生活、人間関係のなかで傷ついた自信を回復し、他者への不安を解消するのが目的です。彼らにとって失敗とは、自分の全てを否定されるほど怖ろしいこと。
だからここには、メンタリングやコーチング担当のスタッフがいて1日の終わりに、振り返りをしますが、失敗してもとがめることはせず、『じゃあ、明日はこうしたら?』とアドバイスするようにしています。」

前職場の元上司や同期は、ねばならないに過剰に適応していた、のではないか、と思いました。そして、人間関係のなかで傷ついた自信を回復し、他者への不安を解消するって今の自分ではないかと。

佐藤洋作さんはこうも語ります。「私達の活動の目標は孤立しない人を育てること。
自分一人でやれることには限界がある。
それよりも援助してくれる場所があることや、快く応援してもらえる頼み方、一度ダメでもまた挑戦できることを知っているほうが大事で、そういう力が身につけば人は生きていける。
自分は被害者だと打ちひしがれるだけじゃなく、自分が主体なんだと胸を張って成長していけるような学習過程を支えるのが、若者支援なのではないでしょうか。」

もう若者ではなく、居宅ケアマネを一年未満でやめた私にも響く言葉でした。
| こども・自尊心・教育 | 09:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

関係の貧困

「『一人でも大丈夫』と示そう 」というオピニオンが秀逸。(児童精神科医・岐阜大学准教授 高岡 健 さん 著 朝日新聞 10月3日)

1997年の神戸小学生連続殺傷事件以降、猟奇的な少年事件が起きるたび、特別な「異常者」による犯行とみなし、排除しようとする風潮が強まってきました。

でも個人に原因を求めるだけでは、根本的な解決にはなりません。

近年の日本社会が普遍的に抱える「関係の貧困」という課題として、とらえていくべきだと思います。

7月に起きた長崎県佐世保市の女子高生による同級生殺害事件は、母の死や父の再婚など、様々な話題が取り沙汰されました。

報道された限りの情報で私が着目したのは、女子高生がせっかく選抜されたスケートの国体出場を嫌がり「足が痛い」と言って棄権したことです。

さらにもう一つ、小6の時に起こした給食の異物混入騒ぎのきっかけが、友達から「勉強ばかりして」と言われたことだったという話も、カギではないかと思いました。

おそらく女子生徒は両親な期待を背負い、他人より秀でなければいけないという彼らの価値観に合わせてきたのでしょう。

成功を目指して努力し、いい大学に行けば幸福が約束される。

そんなシナリオがもはや幻想であることを、大人もそして誰より子どもたちが気づいている時代なのに、自分のチャンネルを変える発想がないように見える両親に、従おうとした。逆に言えばそういう選択肢しか、彼女にはなかったんだと思う。

児童精神医療の現場では、こういう子どもたちに多く出会います。

親と豊かな関係を持てている子どもであれば、軽蔑とは違う意味で「まったくうちの両親はね。」と突き放すことができる。

信頼感があるから、親を乗り越えていけるわけです。

ところが貧しい関係しか結べなかった子どもは、その「まったく」が言えない。あるべき親子関係の虚像に、無理して自分を合わせて、つながりを保とうとするのです。

この不安の裏返しである「つながりへの欲求」は、親子や家庭に限らず日本社会の人間関係全般に強まっているように感じます。

それほど目立たないものの、地方都市などで散発している週刊誌的にいえば
「下流社会」の少年犯罪。これらもエリート家庭で起きた事件の根幹と無縁ではありません。

彼らは集団になじめないのに孤立を恐れて同調する場合が目につきます。

暴走族という集団が関係の貧困を補っていた一昔前と違い、連帯など成立しない時代なのに、自分をいびつな型に押し込める。そして破綻してしまう。90年代以降、顕在化している傾向です。

こうした「ずれ」が生じる理由を、私はバブル崩壊後の「失われた20年」とおおいに関係ごあるとみています。

これまでの日本のやり方では立ちゆかないと、価値の転換が要請された。象徴が能力主義ですね。

誰も守ってくれない、頭ではわかってる。しかし新たな基準に自己イメージを合わせるのは、容易なことではありません。善悪の境界が希薄になったといわれる少年たちの逸脱行動は、社会の基準が大きく揺らぎ、混乱をきたしている過渡期の潮流を投影しているにすぎません。

では、どうすればいいのか。

今回の佐世保の事件で「心の教育」の限界が指摘されているように、もっと根本的な土台から考え直す必要があるのではないでしょうか。

戦後教育は、文部省も日教組も集団主義でした。理念はともかく、個人が第一に優先されるべきことを、本当の意味で教えてこなかった。

いま急ぐべきは、「集団から外れて一人になっても大丈夫」と背中を押してあげることだと思います。

映画「バトル・ロワイヤル」を批判した政治家がいましたが、これは単なる少年たちの殺し合いの物語ではありません。個人が集団から抜け出せる可能性の道筋を、しっかりと示していた。

LINEのいじめなど、IT環境が子どもたちの意識やコミュニケーションを悪い方向に変えた、と言われます。

でも変わったのは手段だけ。皆が一人を攻撃する構造自体は同じです。

そこを断ち切り、社会全体でも家庭でも、一人を前提とした連帯や豊かな関係性を具体的に築くことに、力を注ぐべきだと思います。


| こども・自尊心・教育 | 19:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

関係性の問題と気づく

「居場所をください」の記事に書いた元ゴミ屋敷利用者さん。月曜から今日まで毎日、時には1日2回銀行に引き受けにいきました。手ぶらでの預金引き落とし要求。信頼関係を回復することが先決と先輩に言われました。

元ゴミ屋敷利用者さんには、デイ行きたくない理由、お金おろしてパチンコやタバコや飲酒したい理由があるから、
価値観を押しつけず一旦は共感。

その理由がどんなに理解できなくても尊重して、関係性を保ち、対話を重ねる。
一方で、別の角度から合意を重ねて、目的を果たしていく(^-^)

たとえ目的が果たせなくても、関係性をつくる。
それさえできたら、壁をクリアできるのだと思います(^-^)
| こども・自尊心・教育 | 23:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

あんたのやりかたは間違っている

 ドラマ「家族ゲーム」は、過去の同タイトルの映画とは違って、家族再生の「家政婦のミタ」路線だと思う。ただミタさんと違って、「家族ゲーム」の家庭教師 吉本荒野には、明確な意図があった。悪意の体現者としての。

 何故に、何のために?そこは、物語の核心なので、触れない。

 やりかたが荒唐無稽で間違っていても、結果が良ければいいじゃないか、という意見もあるかと思うが、そもそも、やりかたが間違っていたら、元も子もないというのが私の意見である。

 プロセスが大事だと、身体稽古で学んでいるから…。

 ミタさんと吉本荒野に通じるのは、ある意味「超越者」というところ。超越者が、家族に介入していく…。

 心を持たないはずの超越者が、ときおり見せる人間らしさ。

 いてほしくないはずなのに、なぜか辞めさせられない。

 こんなカンフル剤でないと、再生もさせられない。という考え。そこに病巣があるように思う。

家族の。そして日本の。「あんたのやりかたは間違っている。」日本に介入する超越者へ。

 現実はドラマと違って、ご都合主義では、終わらない。

 

| こども・自尊心・教育 | 15:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

いじめの正体は…

 撮り溜めてくれてたビデオを、一気に観るのが、夜勤あけの楽しみでもあります。「リーガルハイ」のスペシャルドラマ(4月放送)が秀逸。以下、あまりネタバレないようにしましたが、未見の方はご注意ください。

 勝つためには手段を選ばない&珍奇なキャラクター、堺雅人演じる連戦連勝の古美門(こみかど)弁護士と、新垣結衣演じる正義感あふれる若手・黛(まゆずみ)弁護士のコンビ。
 
 男子生徒が屋上から転落。骨折し意識不明。この事件は、いじめが原因か否かで裁判がはじまります。ごまかしと和解へと走る学校側弁護を、古美門のライバル弁護士事務所が担当。

 二転三転し、ラスト近く。裁判で優勢になった古美門が、「いじめの正体」について語ります。(ほんとはそんなこと全く興味のないキャラクター設定なのだけど。)

 いじめの正体。それは加害生徒も、教師も、学校もどれも本質ではなく、この国のあらゆるところに存在するもっとおそろしいもの。われわれは常にまわりの顔色をうかがい、流れに乗ることを強いられる。多数派は常に正義で、異をとなえるものは排除される。

 いじめの正体とは「空気」なのだと。

 特に右から左、左から右へと全員で移動するこの国では、空気という魔物の持つ力は実に強大。

 この敵の前では法ですら無力かもしれない。すべてを飲み込む怪物。立ち向かうこといや、逃げることすら困難である。加害生徒も教師もそれに飲み込まれた犠牲者かもしれない。

 しかし、今回、奇跡が。飲み込まれていたものたちが、怪物の腹を切り裂き、自分たちの意思で空気を打ち破った。彼らの姿に希望を見、世界は常に前へ進んでいると気づかされたのです、と。 
 
 蛇足ですが、堺雅人、少しいっちゃってるキャラうますぎる。このキャラでNHKドラマの剣豪・塚原卜伝を演じてほしかった…(笑)。
 

| こども・自尊心・教育 | 12:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

半日かあさん

 ひょんなことから、5月12日。5歳と4歳の知人のお子さん二人を数時間だけ、預かることになりました。

 しかしその日は夜勤明け。できるのか?やるしかない!という中、天真爛漫な二人の登場。

 ひとまず、なじみの四川料理の店のランチに行こう。その道すがら、道端の花を摘んだり、大人なら気にもとめないことに興味深々。クリニックの前庭とか。商店街の音楽とか。着いたら店はその日に限ってお休み。

 じゃあ次の手段のカラオケ屋さんにいくしかない。駅前にジャンカラあったので、急きょ引き返し。とことことちっちゃな体で、あちこち興味示しながら歩いていく二人とジャンカラへ。

 迷路のような店内。おしっこ行くのもたいへんだ〜。4歳児、割り箸、落とすこと3回。そのたびにもらいに行く…。

 「公園行きたい、公園、公園。」コールに応えて坂道を上がってK公園へ。日差しカンカン照りの中、あちこち走り回る二人。

 たまには日陰にという声も無視して、遊び回る二人。すべり台、ぶらんこ、鉄棒、迷路、…そこに一人で公園に来ていた地元児童Hちゃんが、初対面ながら合流。

 「お友達になって。」「うん。いいよ。」

 子ども目線では、何もかもが新鮮で、生命力に満ちているんだろう。だんご虫を集め、きれいな石を見つけ、隠した貝殻を探して、かくれんぼして、ワタボウシを吹いて。

 ふと、私が子供のころ、すべり台の頂上にいると、降りろと、知らない子どもに言われたことを思い出しました。何も言えないでいると、私の母がその子どもに向かって正しくないと言って追い返してくれたことも。

 今日は母の日。

 子どもたちのママからの迎えの時間が来て、Hちゃんとバイバイすることに。ずっとずっと、バイバイと言ってるHちゃんがかわいそうだったのです。

 子どもたちは、ママにカラオケ屋さんで描いた似顔絵を渡して帰りました。

お母さん、ありがとう。

 

 

 
 


 

 

 

| こども・自尊心・教育 | 18:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

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